必見!あいつ今何してる アントニオ猪木の壮絶過去

アントニオ猪木

今日2019年11月27日、テレビ朝日「あいつ今何してる?」で
アントニオ猪木ブラジル極貧時代の友&中村雅俊幻の名曲2時間SP
アントニオ猪木の壮絶過去…14歳でブラジル移住&過酷労働生活を支え合った友と奇跡の再会!
中村雅俊の“幻のデビュー曲”を生んだ天才音楽家と涙の再会
が放送されます。

https://www.tv-asahi.co.jp/aitsuima/

個人的に必見なのがアントニオ猪木。

今のプロレス界を作り上げた偉大なるプロレスラー。
猪木については若い世代は聞いたことがあるけど、よくわからない人が多いと思います。

そこでアントニオ猪木の現役時代を知る私が番組を見る予備知識として猪木の半生を紹介します。

アントニオ猪木とは

アントニオ猪木は 横浜市鶴見区に1943年2月20日生まれる。
本名 猪木 寛至(いのき かんじ)
「燃える闘魂」って聞いたことありますよね?
新日本プロレス時代、まさに猪木の試合は見ていて子供心をワクワクさせてくれました。
女優の倍賞美津子と一時期結婚していて「おしどり夫婦」ともいわれていました。
主なタイトルは、日本プロレス時代にUSヘビー級チャンピオン、新日本プロレスを立ち上げた後はNWFヘビー級チャンピオン、IWGP世界ヘビー級チャンピオン。
他にも現WWEヘビー級チャンピオン(当時はWWF)、メキシコのUWA世界ヘビー級チャンピオン。
そして今の総合格闘技(MMA)の元になった「異種格闘技戦」。
スポーツ平和党を立ち上げ参議院議員にも当選。
湾岸戦争での日本人人質を救出するなど世界を股にかけた活躍をしています。

ブラジルへ移民

猪木の実家は石炭問屋を営んでいて比較的裕福だったようですが第二次大戦後、世界のエネルギー需要がが石炭から石油に変わり石炭問屋は倒産。
そこで猪木の祖父が一家でブラジル移住を決断。
しかし、その祖父がブラジルに付く前に船上で死去。
大黒柱を失った猪木家はサンパウロ郊外のコーヒー農場で過酷な労働を課せられていたそうです。
しかし少年時代から身体が大きかった猪木は砲丸投げや陸上競技で頭角を現しだします。
サンパウロ地区の陸上大会の砲丸投げで優勝したことが転機になりました。

力道山との出会い

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1960年、興行でサンパウロを訪れていた力道山が猪木を直接スカウト。
プロレスラーになるために日本へ帰国します。
ジャイアント馬場、大木金太郎と同期で三羽烏と呼ばれていたそうです。
元巨人軍、読売ジャイアンツのピッチャーだったジャイアント馬場が先に頭角を現してアメリカへ遠征、大活躍していたが、猪木は力道山の付き人。
馬場に勝つことを目標に猛練習していたが、転機となったのはプロレスの神様、カール・ゴッチとの出会い。


カール・ゴッチとの出会い

プロレスの神様と呼ばれるカール・ゴッチが日本プロレスのコーチとして来日。
そこで猪木は後のストロングスタイルの基礎を身につけて、ジャーマンスープレックスや卍固め、そしてレスリングの基本を学びました。
ゴッチとの出会いがなければ、猪木の華麗なジャーマンスープレックス、卍固めも無かったと思います。
そして後に日本プロレスを追放された後、外国人レスラーの招聘ルートがなかった新日本プロレスの選手として、ブッカーとして猪木の支えになったのもゴッチです。

日本プロレス追放

1970年代、日本プロレスの他に国際プロレスもありましたが、主流は日本プロレス。
しかし、日本プロレスの経理に不信感を持っていた猪木、馬場ら選手会が日本プロレスの幹部の退陣を画策していたところ、「猪木が日本プロレスを乗っ取ろうとしている」とある選手に密告され、猪木は日本プロレスから追放されてしまいます。
この日本プロレスからの追放事件も諸説あり、真相は闇の中。
しかし、猪木ら選手会の大半は嘆願書に署名していたそうです。
その後、ジャイアント馬場も全日本プロレスを設立し、同時に日本テレビも引き入れて、猪木、馬場を失った日本プロレスは崩壊します。

新日本プロレス設立

日本プロレスを追放された猪木は新日本プロレスを設立。
当初は練習場もなかったため猪木の自宅を道場にしたそうです。
テレビ放送もなく、外国人レスラーの招聘ルートも全日本プロレスに握られていて有名レスラーを呼べなかったが、そこで猪木は師匠カール・ゴッチ、そして鉄人ルー・テーズとの対戦、ストロング小林、大木金太郎との日本人対決で活路で脚光を浴びます。
さらに外国人レスラーを育てる方向に向かい、それが功を奏します。
有名なところではタイガージェットシン、スタン・ハンセン、ハルクホーガン。

若手の育成

山本小鉄の厳しい練習で佐山聡(後の初代タイガーマスク)前田日明、藤原喜明、木戸修、高田延彦ら若手の育成に力を注ぎます。
この若手育成がUWF系団体に繋がっていきまます。
カール・ゴッチも直接、前田、藤原、木戸、高田らに指導し、総合格闘技への礎を作ることになります。
子供の頃、新日本プロレスの地方興行を3回見ましたが、試合前のトレーニングも猪木、坂口を先頭にやっていました。
前座の第一試合から面白かったですね。
当時は前座の力道山と呼ばれていた荒川真(ドン荒川)藤原喜明、前田日明、ジョージ高野らが熱い試合をみせてくれました。
地方興行だからといって気を抜かない試合に新日本プロレスのストロングスタイル、キングオブスポーツを感じましたね。

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異種格闘技戦

ストロングスタイル、キング・オブ・スポーツを証明するために行った異種格闘技。
ミュンヘンオリンピック柔道男子無差別級、重量級金メダリストのウィリエム・ルスカとの試合ではルー・テーズ直伝のバックドロップ3連発で撃破。
テレビ朝日の新日本プロレス中継のオープニングで流れていました。
テーズ直伝のバックドロップといえばジャンボ鶴田が有名ですが、猪木が最初のテーズ直伝、へそで投げるバックドロップの使い手だと私は思います。

そして伝説にもなっているモハメド・アリとの一戦。
猪木は立ってからのキック、チョップの打撃を封じられ関節技も制限される中、15ラウンド引き分けで「世紀のの凡戦」と呼ばれた。
しかし、猪木のネタ状態からのキック、いわゆるアリ・キックでアリは試合後入院。
膝に裏に血栓症を患ってかなりの重症だったといわれています。
一方の猪木も蹴りまくった足が骨折。
しかし「世紀の凡戦」といわれた試合が、猪木の名を全世界に知らしめるともに、総合格闘技が全盛になった今、伝説の試合と言われるようになっています。

湾岸戦争での日本人人質救出

スポーツ平和党を結成して「国会に卍固め」「消費税に延髄斬り」をキャッチフレーズに参議院選挙に出馬し当選。
猪木の議員活動で有名なのが湾岸戦争での日本人人質開放です。
人質開放のため難色を示す外務省に対して、猪木は個人費用で航空機をチャーター、
「平和の祭典」を開催し、それが実りイラク政府は人質全員を解放に踏み切った。
猪木が単独で動かなければそれに繋がらなかったでしょう。
そしてイスラム社会での猪木の知名度の高さも功を奏しました。
イスラム教徒のアリとの対戦がイスラム社会で信用を得ていたとの説もあります。

まとめ

アントニオ猪木が居なければ現在のプロレス界、総合格闘技は無かったと思います。
前田日明、高田延彦、船木 誠勝ら猪木の弟子たちが総合格闘技を日本に導き、プロレスでも経営は変わりながらも新日本プロレスがプロレス界を引っ張っています。
プロレスラーという壁を超えて、もっと評価せれるべき人物がアントニオ猪木ですね。

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